2002年12月29日日曜日

〔再録〕荷風はどうして時代が読めたのか

2002.12.29


荷風はどうして時代が読めたのか。

荷風を読んでいて感心するのは、文学的才能もさることながら、荷風は実に時代が読めた人だったと言うことです。明治、大正、昭和のそれぞれの時代で、実に洞察力のある情勢判断と予測をしており、今から見るとそのほとんどが正しかったことが分かります。政治経済の勉強なぞしたことがなく、新聞すら満足に読まなかった荷風がどうしてこのような的確な情勢判断をすることが出来たのか、今回はこれを考えてみたいと思います。

もちろん荷風は西洋かぶれで日本の軍人が嫌いでしたから、悪口ばっかり言って、それが結果的に的中したとも言えないことはないでしょうが、それだけではない。例えば、昭和6年11月10日の『日乗』には「つらつら思うに、今日わが国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新たにするものは、けだし武断政治を措きて他道なし」と政党政治の問題を正確に捉えていますし(軍人の方がまだましといっているのは「こんなのだったら猫にやらせた方がまし」と言うぐらいの誇張的表現でしょう)、昭和11年2月14日には「日本現代の禍根は政党政治の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり」と、軍人だけの問題ではなく日本人全体の問題として捉えているのは非常に的確と言わねばなりません。海外情勢にしても、西欧諸国のことを手放しに礼讃したのでもなく、昭和7年10月3日には、「英国は世界到るところに領地を有す。しかるにわが国が満州占領の野心あることを喜ばずは奇怪の至りと言うべきなり」と英国の批判をしたかと思うと「然ると雖も日本人の為すところも亦正しからず」と続けて、当時の世界情勢を実に的確に要約しているのです。経済問題についても昭和18年12月31日に「戦争終局を告ぐるに至る時は、政治は今より猶甚だしく横暴残忍となるべし。必ず、債券を焼き私有財産の取り上げをなさでは止まざるべし」と、戦後の預金封鎖、財産税、超インフレによる資産没収を正確に予測しています。荷風がやった土地株式の売買なども、今から見ても全て絶妙なタイミングでやっており、散人などは足下にも及びません。

何故こんなに先が見通せたのか、理由をいろいろ考えていたのですが、結局、荷風が時代を読めたのはいわゆる「傍目(おかめ)八目」という奴ではないかと思い始めました。「傍目八目」とは将棋を横で見ている見物人は頭に血が上っている当人達より冷静なので八目先が読めるということわざですが、荷風は「当事者」でなかったからこそ情勢が読めたと言うことだと思います。荷風が当時の日本社会につくづく厭気を覚え「江戸戯作者の程度まで身を引き下げよう」と決心したというくだりは「花火」に書いてありますが、この時点(明治44年)で荷風は実社会と距離を置くようになったと言えます。しかし世捨て人のように完全に現世から身を引いたわけではなく、現に東京で世俗的な生活を続ける。この社会との「適当な距離感」こそが荷風をしてたぐいまれなる時代の予言者としたといえるのです。

これは荷風のコスモポリタン的な性格と密接に関係しているようにも思います。本当に不思議なのですが、明治に西欧に渡った森鴎外、夏目漱石、永井荷風を較べてみますと荷風のコスモポリタン的な性格が鮮明になってきます。荷風は西欧に於いて、日本留学生を例外なしに悩ませた「日本人であるということのコンプレックス」を全く感じていなかったようなのです。これは実に不思議です。豪快な森鴎外ですら、ドイツで「鼻くそをほじるのは日本人だけだ」と言われて、ドイツ文献を一生懸命に調べ遂にドイツ人も鼻くそをほじるという記述を見つけて鬼の首を取ったように喜ぶということをしました。これはやはりコンプレックスです。漱石はロンドンの町で自分の姿を鏡に見て言うに言われない劣等感にさいなまれノイローゼになったことは有名な話です。二人とも日本人であると言うことをとても意識して生活をしていた。自分と日本を同一に考えている。当事者の考え方です。ところが荷風についてはそういう話が一切なかった。日本人駐在員の悪口は言うのですが、自分と明らかに距離を置いている。

荷風にはコンプレックスというものがもともと薄かったことがこういう事に繋がったのだろうと思います。ことに西欧コンプレックスは、日本人の場合、過激なナショナリズムに繋がりやすいだけに、荷風がそれを持っていなかったのはとても幸せだったと思います。コンプレックスを持たないことが、荷風をナショナリズムから遠ざけ、コスモポリタンとし、距離を置いた冷静な情勢判断を可能にさせたと言えるでしょう。

このコスモポリタン的な性格は、荷風の場合、小さな弱い存在に対する愛情にも繋がっていると思います。フランスからの帰路、イスタンブールでトルコの旗を見て、同情と感動を覚えるくだりがありますが、あれは弱者への愛情でしょう。捕らえられた台湾土人に対する同情や、韓国、中国に対する惜しみない愛情もそうです。荷風にとっては国籍は関係なかった。『ぼく東綺譚』などの一連の小説でひかげの女たちへの愛おしみも、自分と同じ集団に属していない人たちへの愛情であり、同じコスモポリタン的なものが感じられます。ナショナリスティックな民族主義者達はどうしても自分と同じでないものを排除し憎むという傾向があります。集団に属する組織人もそうです。それらの邪悪な感情は、もとはといえばコンプレックスから來ているように思えてなりません。荷風は、現代日本人の生き方考え方においても、教えてくれるところが多い作家だと感じています。








2002年12月24日火曜日



季節のご挨拶
                 ..................
余丁町散人

いよいよクリスマスです。その後はお正月。謹んで季節のご挨拶を申しあげます。今年はあまり良い出来事がなく、子供も独立、家内は里帰り、家族ばらばらでの、あまりぱっとしない年末ですが、来年にはまた来年の風が吹くのでしょう。「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」天平宝字三年(759年)の元日、大伴家持が詠んだ万葉集最後の歌です。家持は当時不遇だったにもかかわらず、恨みつらみはない素直な歌です。こういう気持ちで新年を迎えたいと思います。皆様もどうか良いお年をお迎えください。

この樹のように力強く

我が家の2002年

今年の我が家の10大ニュースを考えてみました。

1)まず何と言っても、家内の仕事が認められたことでしょう(フランス国家功労賞シュバリエ)。変な日本人サラリーマンと結婚したばかりに、やりたいこともやれなかった家内とそれを申し訳なく思っていた亭主にとっての何よりのリコグニションでした。

2)猫を飼う。うちにやってきた猫ピカチュウはとても活動的な家族の一員となりました。

3)ホームページを開設。難しいものだと思っていたホームページをアップル社のサービスのおかげで開くことが出来ました。

4)マックを購入。長らくパソコンから遠ざかっていたものですが、HP開設を機会にパソコンと関連機器を新しくし、遊ぶようになりました。

5)暁の就職内定。大学を出てから専門学校に通うなど本人も苦労しておりましたが、ようやく好きな仕事に就くことが決まりました。とてもよかった。
6)「視点コラム」を再開。現役時代に書いていた視点コラムを再開しました。

7)経済の低迷。これを機会に今まで一喜一憂していた経済動向への執着を捨てることとしました。そうすると相当楽になりました。

8)荷風と親しむ。HPに「荷風塾」というサイトを作ったおかげで、荷風について勉強することが増えました。知れば知るほど奥が深い。

9)フランス語の勉強開始。荷風とフランス文学の関係について興味が湧いています。でもその為には大量のフランス語文献が読めないといけないので、手始めの勉強としてルモンド紙を毎日読み、記事翻訳をHPに上げることにしました。

10)今年の1月に始めたHPへの書き込み蓄積作業を12月になってもまだ続けています。一年近くになります。三日坊主の小生にとっては珍しいことです。この調子でうまく行くと自分なりの自分史となるかも知れません。「のんびり、ぼつぼつ、たのしく、まめに」をモットーに来年も続けていきたいと思っております。

新年の抱負
***

新年にはいつも大風呂敷を広げるのですが、今年もそれを広げてみます。

1)健康管理。言わずと知れた体重管理と運動です。新年は「質実剛健粗食で体を動かして働く一年」とするのです。毎年同じことを言っているのですが、今年もまた同じ誓いを立てます。

2)お勉強。荷風が読んだフランスの小説評論の類を10年がかりで全部読んでみたいとの野心が湧いてきています。新年はまずオリエンテーションから。文献リストの作成から始めて見たいと思います。フランス語のお勉強はもちろん必要です。

3)気晴らし。「引きこもり」兆候が出ているので、たまには積極的に旅行でもしたいな。面倒くさがらずに。田舎道をゆっくりカブリオーレでドライブ旅行というのも考えてみたいです。


フランスにも行きたいな。下の写真は義父のお墓の前の家内。モンマルトル墓地。

2002年12月19日木曜日

Le Monde : 薔薇の剪定は、今が時期!

2002.12.19
ルモンド紙。きょうは薔薇のお勉強。今ちょうど剪定の時期だそうです。春に買ったツルバラを移植しようかと考えていたところでしたので、苦労して翻訳しました。でも理解できないところもある。薔薇は奥が深そう。

La taille des rosiers, c'est maintenant  ! (2002.12.19)

薔薇の剪定は、今が時期!


「耕すことは成長への参加」、「きょうの仕事の結果は、明日のよろこびに繋がる」、この二つの言葉は、植木鉢の底に、蔦がECの紋章のように丸くからんだ模様飾りに書かれたもので、植木鉢メーカーの長年の宣伝文句です。

トルコがECに参加したいと言っていますが、園芸家に喩えさせれば、この蔦の紋章みたいなものでしょうか。蔦の花言葉は「我は、我のくっつくところで死す(死ぬまでくっつきたい)」というものです。

トルコの山々は、我々の庭の多くの球根植物の原産地です。多くの小灌木も、シャクナゲも。葵も黒海周辺の山々で野生しているもので、古代ギリシャ語では「ポント・ヨクシン」と呼ばれていました。香りが高く棘のある野生の薔薇もトルコが原産です。

さて薔薇についてですが、薔薇は寒い内に剪定しなければなりません。最初の水仙やツバキや黄水仙が咲き出してからでは駄目なのです。

つい数ヶ月前に園芸雑誌のコラムで議論されたことなのですが、どの園芸手引き書にも「薔薇の剪定は3月」と書いてありますが、間違っているのです。それに従ってはいけません。今剪定しなさい。

冬に剪定ばさみを使うのです。薔薇という灌木はきわめて早い時期に成長を始めるからです。薔薇は気温の上昇に対してよりも日照時間が長くなることに対して敏感なのです。なかでも「ルゴサ」種は一番早く、一月末には成長を始め、葉っぱが枯れているのに芽がふくらみ始めます。ずっと太陽の光から遮られてきた修道女のように、非常に速い速度で咲き始めるのです。2月の終わりまでには、家の中に入れていた薔薇を外に出すことで、すっかり大きくなります。

もし、3月に剪定するならば、樹液が既に循環を始めた枝を剪ることとなり、薔薇をして、剪られた下の部分から新たに芽を芽吹かせるという、余分な負担を掛けることになるからです。

もし、今、1月末以前に剪定すると、剪られた枝は、樹液はまだ循環していないもので、薔薇は冬眠中と言うことなのです。穏やかな気候の地域では、薔薇は冬の間でも、半分しか冬眠しない状態で、成長を続けています。今年の秋は、最初雨が降らず、後半になって雨が降ったので、若干開花は遅れるようですが、その分とても綺麗な花となるはず・・・。最近またちょっと寒いので、薔薇はまたちょっと眠りについています。

その機会を利用しましょう。薔薇は大きく分けて二種類に分類できます。年一回しか咲かないタイプと、二回咲き、或いは連続して咲くタイプの薔薇です。前者の場合は、枯れた枝とか、古くなった枝や弱った枝、それに伸びすぎて形を崩した枝などだけを、綺麗に剪定するだけに留めます。

ツタバラは小さな花を咲かせますが、枝や幹は軟らかく支柱に支えられていますが、からんだ枝を調べて、枝の一番先にある花を付けた茎や水平に分岐した枝の先にある茎は取り除きます。これらの茎は芽を付けていないので発芽することはないからです。

花を落とした茎から一番最初にある芽を見つけ、そのすぐ下を剪ります。その下からツルバラは伸びていくからです。枝が、曲がりくねりながら、ほぼ水平に伸びていくように、うまく剪定します。まっすぐに枝をしてしまえば、花は先端に咲くだけです。枝を曲げることで、花が全長に渡ってつくことになります。これがツルバラがよくアーチ型にして栽培される理由です。

伝説的に言われていることとは反対に、一回咲きの薔薇も剪定することが出来ます。デリケートな作業で、水平に伸びた枝を弱く剪り、前年に伸びた大きな枝はもうちょっと強く剪ります。灌木性の薔薇も、太い幹を持ったツルバラと同じように、適当な樹に寄せて伸ばすことで、たくさん花を咲かせることが出来ます。

もちろん、多回咲きの薔薇のように丸坊主にしてはいけません。この種の薔薇(多回咲き、の薔薇)はからみつくつかないは別にして、大きくなるものです。からむことと大きくなることは別です。大きくなることでシーズンに何回も花を咲かせるのです。

この薔薇は、強剪定に耐えますが、蔓性の枝についてだけは、一回咲きの薔薇のように注意して剪定しなければなりません。

よく、枝の下から数えて三つ芽の芽のところで剪定しろと言いますが、注意してください。全てに於いて、一般化は、調子に乗ると間違いの元になるからです。

薔薇の成長が遅ければ遅いほど、より強く剪定するべきです。そのことによって、栄養を送るべき枝の数が少なくなり、残された枝はより大きくなり、花もたくさん着けるようになるからです。薔薇が丈夫であればあるほど、強く剪定せずに伸ばすべきです。樹液が満ちあふれているのでどんどん成長するからです。

丈夫な薔薇は思い通りに剪定できます。全体のシルエットを調和した形にととのえ、樹の真ん中まで良く日が通るように枝の中を剪定します。大きな枝は元から剪ってしまうことが出来ます。余分な無駄枝も剪ってしまいましょう。無駄枝は棘がより多く、色が違うので分かります。それは接ぎ木に出来ます。こういう風に手入れをすれば、薔薇は何十年も若者のようにみずみずしく生き続けるのです。

ARTICLE PARU DANS L'EDITON DU 19.12.02

2002年12月18日水曜日

ナショナリズムに逃避する人たち

2002.12.18
インターネットの面白いところは、普段お話しする機会がないような、いろんな人々と意見交換などが出来ることであり、それなりに勉強になるし刺激を受けることが多いのだが、最近気になっているのが、ネットニュースなどでのナショナリズムの高まりである。在日韓国人や外国人に対する露骨な攻撃や、地域差別的な発言、また西欧(米国)や中国に対する感情的な反発や、日本を奉るあまりに南京大虐殺の事実を誤魔化したりする暴論すら目にする。もともとこういう類の人間は居たことは居たのであるが、最近になって特に目立つ。背景には長引く不況と日本の国際的地位の低下がもたらしたフラストレーションの蓄積があるように感じる。

もともと日本人は、こういう紋切り型の決めつけは厭だが、集団の中に自己のアイデンティティーを見いだす人が多いと言われてきた。個人主義者が日本の歴史にいないこともなかったが、それらは常に集団からはみ出してしまった、いわば隠者としての個人主義者に過ぎなかった。大部分の日本人は、自己が所属する集団の盛衰を自己の盛衰と同一視して生きてきた。その集団とは、イエであったり、村であったり、藩であったり、会社であったり、そして「日本」であるわけだ。しかし最近は、村は遠くなり、企業は国際化で一層ゲゼルシャフト化してきているし、いよいよ自己の拠り所とは「日本」しかないと言うことになるらしい。ところが、バブル崩壊以降の日本の地位低下は甚だしい。またグローバル化と自由化が進み、単に日本人であることだけで高所得が保証されることではなくなっている。終身雇用制度や学歴社会という昔の約束事がもはや通用しなくなりつつある。このことがだんだん明らかになるにつれ、フラストレーションがつのり、日本を必要以上に神聖化し、外国を排斥する言動として表れてきているようだ。フーリガン、ナチス、ルペン支持者など、全て弱者の焦りとフラストレーションを、ナショナリズムに逃避することで発散させているものだ。

明治維新の時も、従来の価値観が否定され大量の士族が失業した。第二次大戦直後も大変動の時期であった。しかし、この二つの変革期とも、日本人は新たに帰属すべき集団を容易に見つけることが出来た。明治時代では、藩に変わって「国家」に帰属すれば良かったし、戦後は、お国に替わって「企業」が忠誠心を捧げる対象となった。でも今回は違う。グローバル革命に於いては、国家や企業は必ずしも利益再配分メカニズムではなくなっているのに、国民はそれに替わる新たな帰属の対象を見つけ得ることが出来ないで居る。世界最強の金持ち国家であるアメリカですら、普通の勤労者の所得は落ち目の規制国家日本の勤労者より低い状況を見れば、グローバル国家とはグローバル化のおかげで得られた富を必ずしも自国民だけに再配分するものでないことは明かであろう。これをおかしいというのは、一国エゴイズムでしかないこともまた事実であり理屈が通らない。勤労者はこれをうすうす感じているから、フラストレーションがたまる。「本当の日本」はもっと美しいものであるというわけで、抽象化された「日本」を主張するようになる。

そういう状況下、人は自分に最後の拠り所を求めるしかない。自分の信念とか理念である。そして強者を目指す。日本は国家として落ち目であっても、それがどうしたというだけの、坂口安吾が焼け跡の中で強烈に示した根性だ。ところが日本では、伝統的に、この「個」が確立されてこなかったことは、上に述べたとおりである。宗教も脆弱である。夏目漱石は「私の個人主義」と題した講演の中で、「集団の倫理は個人の倫理より劣等である」と喝破し、日本における個人主義の未成熟を憂慮したが、100年近く経っても未だ道遠しとの感を、ネットでのナショナリスティックな発言を聞くにつれ、強くする。これは危険な兆候である。このフラストレーションの集団的暴発をどう食い止めるのか。基本的には、このようなネガティブな感情は、単にそれを懐柔することだけでは抑えきれないだろう。フランスではシラク新政権が着々と新政策を打ち出し、従来の左派政権が作り出した歪みを一つずつ矯正し始めている。ところが日本では与野党共に大多数が守旧派で占められている上に、国民の大多数も内心は既得権の受益者であることを自覚しており保守的である。日本の本当の危機は此処にあるように思える。

2002年12月14日土曜日

Poissons volent (2002.12.13) 魚が飛ぶ

2002.12.14 
ルモンド。ギリシャの村にお魚の雨が降ったお話しです。「同じ降るならお札が降ってきたらいいな」と言うような輩は、詩心がないのでしょうね。

par Pierre Georges
Poissons volent (2002.12.13)


魚が飛ぶ

結局のところ、そんなに気を落とすこともない。原油でいつも汚染されている海や、しょっちゅう起こる些細な犯罪事件や、経済指標がいつも錐揉み状態にあることや、天気予報はいつも警戒予報ばかり出すことなど、僕らの住むところには厭なことはいっぱいあるけれども。

そんなことは「なにくそ」と言って、ちょっぴり優しい気持ちを持とう。詩心を持とう。たとえば、このアテネからの短い電報だ。アテネの天気は、必ずしもいい天気ばっかりとは限らない。ギリシャの北部の山間地方となれば尚更。でも、あの辺の嵐は、時として人に夢を見させ、笑みをもたらすような趣味の良い嵐だ。コロナという山間部の村で、火曜日、雨が降った。何百という小魚の雨である。無数のほたるの鱗片が天から降ってきたように。

とてもびっくりするような現象だ。というのも「フライの嵐だ、子供達フライパンもってこい」なんと言うことは、そう毎日起こることではないから。だから、これは撮影されてテレビでも報道された。嘘じゃないのだ、本当のことだ。サロニック大学の気象学の先生はちゃんと説明をしてくれた。どんな現象にも説明は付き物だ。翼も持っていないし、熱気球用の浮き袋も持っていないお魚がどうして雨になって降ってきたのかも、ちゃんと説明出来るのである。

こういうことのようだ。1)この地方で激しい悪天候が発生していた。2)その結果、暴風は小規模の竜巻を発生させ、それが電気掃除機のように、近くにあるドイラニ湖の水を吸い上げた。3)その湖の小さな魚が湖水と一緒に吸い上げられ、天高く舞い上がり、北部の方に飛んでいき、そこで雨となって、あたかも奇跡のように村の屋根や路地の上に降り注いだというわけだ。

このようにして数々の伝説や奇跡が起こった話が生まれてくるのは、疑いないところだ。とにかく、このことでコロナの村に住む人々は、自分が歳を取った時に子供に語り継ぐべきお話しを持つことになった。天から魚が降ってきたあの火曜日のことを。これこそ過ぎ去った出来事を伝説として口承で伝えてゆく地方の伝統を利用するべき出来事なのだ。

このお話は我々の気象学からして明らかに珍しいことだ。非常に珍しい。でも決して起こりえないことではない。たとえば、ある朝、または夜、木々の葉っぱが、自動車の車体が、黄色い鱗片で覆われているというような、ある種の夢のような詩的な発見をすることがある。そう、これは起こることだ、保証してもいい。砂漠でもないのに、近くに砂丘がないのに、風が砂を運んで来るではないか。そして砂の雨が降る。遠くの砂漠からの砂が、あのいい香りがする熱い砂が、降ることがあるではないか。

そういう時、いつも同じ夢を見る。パリ・ダカール間に長く伸びる不動の旅の路が、あなたの駐車場まで伸びてきている夢だ。砂を含んだ風、その結果としての砂の雨は、よく知られた現象である。北アフリカから、サハラ砂漠から、風はあたかも巨大な電気掃除機のように、砂を吸い上げ、高く吹き上げ、成層圏にまで持ち上げる。この美しいイメージを思い浮かべてみよう。その砂が追い風を受け、うぶ毛のように飛び、やがて降り注いでくるのが見える。

よく分かったでしょう。これで用心深い人は、牛よけバンパーとワイヤー巻き上げ機付の四輪駆動車を、パリのアブキール通りに吹く砂嵐に備えて買うことになるかもしれない。冗談を言い合うのではなく、むしろ恐怖に震えましょう。最大級の暴風が彼の地で発生したら、明日、パリに降るのは、保証しますが、それはサソリの雨なのです。

ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 13.12.02

2002年12月8日日曜日

Le Monde : 年寄り達、働け!

2002.12.8 
ルモンド。今日の論説は「年寄り達、働け!」とする厳しいご指摘です。日本もフランスも同じような高齢者問題を抱えているので身につまされます。基本的にはその通りですが、日仏共に、労働生産性の上昇の余地は、まだまだ相当あると思う。米国では労働生産性が今でも上昇中なのに、日仏では労働生産性が停滞しているのです。生産量は、労働者数、労働時間に加えて「労働生産性」の関数ですから、生産性が1%でも上がれば大きく変わる。またルモンドも分かっているように週35時間労働制度なんかもまず撤廃するべきですね。
par Eric Le BoucherAu boulot, les vieux ! (2002.12.8)

年寄り達、働け!

総合計画局は今週ある報告書を発表した。この報告書は自分の子供達の将来に関心のある全ての親たちが急いで熟読すべきものである。市場経済が勝利したなぞ言って「計画」の有用性を疑問視する連中も(特にそういう連中は政府内に多く、この6ヶ月この総合計画局を尊大にも無視してきたのだが)、この報告書を読んで深く考えるべきである。ここに、非常に慎重に、しかし最大限の真剣さでもって調べられた我々の将来が、きわめて明確に示されているのだ。

戦後のベイビーブーマー世代がもうじき隠退生活に入ることは知られている。それぞれの職業の年齢ピラミッド構成から、総合計画局の専門家は、職業毎に予想される退職者数を計算した。それにこれまでの傾向を延長して創出されたり消滅したりする雇用者数を付け加えた。これで我々子供の世代の雇用状態を表す大きな数表が完成したのだ。

どこから説明しようか。一番いいのは詳しく全部読むことだ(参照文献、ルモンドの12月7日のレポートおよび発表報告書原文)。様々な発見がある。たとえば、今後の採用者数が一番多いのは政府セクターだ。2000年から2020年にかけて、公務員の必要補充員数は、まとめて50万人と推計されている。政府セクターは、70万人の雇用を必要とする家政補助セクター(乳母、家政婦、庭師などなど)に次ぐ大きな雇用吸収部門となっている。他に、産業自体が若く定年退職者数が少ないが、情報・通信・研究部門でも雇用増が見込まれる。これらの新しい部門では発展が見込まれ多くの雇用が創られるが、職は高技能資格者に限定される。

次に来るのが、よりみんなに開かれた職場だが、工業部門や健康福祉部門。又しても驚きだが、これらの産業部門は新卒者を雇用するのに苦労することになるとのことだ。労働市場の力関係は、従来は給与労働者にとって不利となっていたのであるが、力関係は逆転する。今後は会社側が労働者をどうしてつなぎ止めるか、その術を学ばねばならない。これは既にして今の新卒者に見られる。しかし、手工業者やレストラン経営者なども、いま既に若者を採用するのに苦労すると文句を言っているが、同じことを努力しなければならない。でも、それは自分たちの責任でもある。これらの職種は、若者を採用するには、職業のイメージや就業慣行や、もちろん報酬も、根本的に見直さないといけない。1968年に社会人になったベイビーブーマー達は、今度は自分が引退することで最後の革命を引き起こすことになるのだ。

でも68年世代はそんなに急に退職していくのだろうか。この報告書のもう一つの教訓は(今までの常識を)疑えということにある。もし退職者数と新規就業者数がこのまま推移して行けば、結果は国の経済にとって悲劇的なものとなるのだ。以前は、この人口構造からして、将来は退職者数が新規就業者数を上回ることで、失業者数は減ると単純に算術計算して、将来は失業問題は解決すると考えられてきた。しかし単純計算ではその通りだが、実態は全然ちがうことが分かったのだ。

専門家の計算では現在9%に達している失業率は、確かに下がることは下がるものの、2010年までの平均成長率を年率2.4%として、2010年時点で7.9%にまでしか下がらないと計算している。此処に悲劇がある。この数字でも楽観的すぎるのである。定年退職は、とりもなおさず、生産活動人口の減少である。2006年以降毎年少なくとも2万人ずつ就業希望者が減少する。それに例の不吉な週35時間労働制度を加えると、経済の潜在成長率は低下せざるを得ない。「生産労働人口のほんのちょっとした減少でも成長率を2%以下の押し下げることになる」と総合計画局の責任者は言う。

これは国家経済の一番深刻な問題である。社会負担が重いとか、税金がどうだとか、国家の制度が古くて疲弊しているとか、いろいろ言うことはいいが、そんな問題はこの厳しい現実の問題(労働人口問題)に較べれば、どうってことはないのだ。働く人の数がどんどん減る国ではより豊かになることなど期待できないのだ。

解決策を求めねばならない。どんな? 報告書は全ての可能性を吟味している。女性の就業率を高めること? 確かにその通りだが、もう既に女性の就業率は男性の就業率とほとんど同じにまで高まっている。これだけでは十分ではない。学校の卒業年齢を低くして、早期に職業に就かせるようにするか? でもこれは歴史の流れに逆らうものだし、就業者の能力形成を損なうものである。外人労働者を入れる? それは明らかに一番簡単な解決策ではあるが、もう充分知られているように融和問題があるし、高い能力を持つ労働者を必要とする経済のニーズに応えるものではない。

唯一、本当に工夫できる余地があることは、仕事をより長く続けさせることである。「年寄り達、働け!」である。これが全ての問題の解決の方向である。年金会計の赤字を解決するためには、年金掛け金を払う期間を、大ざっぱに言って5年間長くする必要がある。政府はこれを言い出すのにびくびくしているから、たぶん当初は2年6ヶ月の延長(残りは2008年の新たな年金見直しの時に延長)とするだあろう。しかしこれは数字が明らかに示していることなのだ。経済が十分な潜在成長率で成長するために、また経済が必要とする労働者を確保するために、今流行となっている早期退職制度という殺人行為はやめさせるべきである。

フランスは怠け者のチャンピオンである(グラフを参照)。60歳以上の人間で就業しているのは15%にしか過ぎない。1970年当時ではこれが70%だった。会社側と労働者側はこれまで手をつないで、人員合理化の手段として早期退職制度を推進してきた。痛みの少ない手段ではあるが、同時に全体経済にとっては非経済的な手段である。社会問題大臣は、フランス・テレコムの2万人削減計画発表の直前、この問題はフランスの勇気の欠如を示すものであるとして、早期退職制度は「国家的災難」であると指摘した。フランスは本当に高齢者の就業を全体的に見直さねばならない。ベイビーブーマー達、あなた方はピルを飲んで、フリーセックスをして、充分な子供を作ることをしなかった! 仕方がない。働いてください。

Eric Le Boucher

ARTICLE PARU DANS L'EDITON DU 08.12.02

2002年12月4日水曜日

珊瑚集:月の悲しみ シャアル・ボオドレエル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
  Tristesses de la Lune Charles Baudelaire

Ce soir, la lune rêve avec plus de paresse ;

Ainsi qu'une beauté, sur de nombreux coussins,

Qui d'une main distraite et légère caresse

Avant de s'endormir le contour de ses seins,



Sur le dos satiné de molles avalanches,

Mourante, elle se livre aux longues pâmoisons,

Et promène ses yeux sur les visions blanches

Qui montant dans l'azur comme des floraisons.



Quand parfois sur ce globe, en sa langueur oisive,

Elle laisse filer une larme furtive,

Un poëte pieux, ennemi du sommeil,



Dans le creux de sa main prend cette larme pâle,

Aux reflet irisés comme un fragment d'opale,

Et la met dans son cœur loin de yeux du soleil.


(Les Fleurs du Mal)


  月の悲しみ シャアル・ボオドレエル



「月」今宵、いよよ惰(ものう)く夢みたり

おびただしき小蒲団に亂れて輕き片手して、

まどろむ前にそが胸の

ふくらみ撫づる美女の如。


軟き雪のなだれの繻子(しゅす)の背や、

仰向きて横はる月は吐息も長々と、

青空に真白く昇る幻の

花の如きを眺めやりて、



惰(ものう)き疲れの折折は下界の面(おも)に、

消え易き涙の玉を落す時、

眠りの仇敵、沈思の詩人は、


そが掌に猫眼石の破片(かけ)ときらめく

蒼白き月の涙を摘取りて

「太陽」の眼(まなこ)を忍びて胸にかくしつ。



『珊瑚集』収録のボードレールの詩は全部で七つ。これが最後のものです。最後に美しい詩が入っていてほっとしました。「月」は "lune"、それから "lunatique" という言葉が出てきました。「気が狂った」という意味です。お月様から滴が垂れて、その滴が頭に入れば、人は気が狂うと言われていた。日本の「竹取物語 り」でも、月の光を浴びるのは不吉というくだりがあり、これは東西共通の言い伝えのようです。荷風は月を愛でる人でした。昭和20年、偏奇館炎上の際、荷 風はゆうゆうと愛宕山にかかる繊月を仰ぎ、それを日記に書きます。太陽よりは月を、表通りよりは裏通りを、社会的栄華よりは陋巷に隠棲することをのぞんだ 詩人の原点が、此処にも見られます。

余丁町散人 (2002.12.4)

--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年12月3日火曜日

珊瑚集:腐肉 シ ヤアル・ボオドレヱル



『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。

シャルル・ボードレール
原文       荷風訳
Une Charogne Charles Baudelaire
   

Rappelez-vous l'objet que nous vîmes, mon âmes,

    Ce beau matin d'été si doux :

Au détour d'un sentier une charogne infâme

    Sur un lit semé de cailloux,




Les jambes en l’air, comme une femme lubrique

    Brûlante et suant les poisons,

Quvrait d'une façon monchalante et cynique

    Son ventre plein d'exhalaisons.



Le soleil rayaonnait sur cette pourriture,

    Comme afin de la cuire à point,

Et de rendre au centuple à la grande Nature

    Tout ce qu'ensemble elle avait joint ;



Et le ciel regardait la carcasse superbe

    Comme une fleur s'épanouir,

La puanteur était si fort, que sur l'herbe

    vous crûtes vous évanouir



Les mouches bourdonnaient sur ce ventre putride,

    D'où sortaient de noirs bataillons

De larves, qui coulaient comme un épais liquide

    Le long de ces vivants haillons.



Tout cela descendait, montait comme une vague

    Ou s'élnçant en pétillant ;

On eût dit que le corps, enflé d'un souffle vague

    Vivait en se multipliant.



Et ce monde rendait un étrange musique,

    Comme l'eau courante et le vent,

Ou le grain qu'un vanneur d'un mouvement rythmique

    Agite et tourne dans son van.



Les formes s'effaçaient et n'étaint plus qu'un rêve,

    Une ébauche lente à venir,

Sur la toile oubliée, et que l'artiste achève

    Seulment par le souvenir.



Derrière les rochers une chienne inquiète

    Nous regardait d'un œil fàché,

Epiant le moment de reprendre au squelette

    Le morceau qu'elle avait lâché.



- Et pourtant vous serez semblable à cette ordure,

    A cette horrible infection,

Etoile de mes yeux, soleiul de ma nature,

    Vous, mon ange et ma passion !



Qui ! telle vous serez, ô la reine des grâces,

    Après les derniers sacrements,

Quand vous irez, sous l'herbe et les floraisons grasses,

    Mosir parmi les ossements.



Alors, ô ma beauté !  dites à la vermine

    Qui vous mangera de baisers,

Que j'ai gardé ka forme et i'essence divine

    De mes amours décomposés !


(Les Fleurs du Mal)

腐肉 シ ヤアル・ボオドレヱル


わが魂などか忘れん、涼しき夏の

晴れし朝に見たりしものを。

小径の角にみきくき屍

捨てし小石を床にして、



毒に蒸されて血は燃ゆる

淫婦の如く足空ざまに投出し

此れ身よがしと心憎くも

汗かく腹をひろげたり。



照付くる日の光自然を肥す

百倍のやしなひに

凡てを自然に返すべく

この屍を焼かんとす。



青空は麗しき脊髄を

咲く花かとも眺むれば、

烈しき悪臭野草の上に

人の息をも止むべし。



青蠅の群翼を鳴らす腐りし腹より

蛆虫の黒きかたまり湧出でて、

濃き膿の如くどろどろと

生ける襤褸をつたひて流る。



此ら等(ち)のもの凡て、寄せては返す波にして、

鳴るや、響くや、揺らめくや。

吹く風に五體はふくらみ

生き肥ゆるかと疑(あやし)まる。



流るる水もまた風に似て

天地怪しき楽をかなで、

節づく動揺に篩の中なる

穀物の粒の如くに舞狂へば、



忘られし繪絹の面に

ためらひ描く輪廓の、

絵師は唯だ記憶をたどり筆を取る、

形は消えし夢なれや。



巖の彼方に恐るる牝犬

いらだつ眼に人をうかがひ、

残せし肉を屍より

再び噛まんと待構ふ。



この不浄この腐敗にも似たらずや、

されど時として君も亦。

わが眼の星よ、わが性の日の光り。

君等、わが天使、わが情熱よ。



さなり形態の美よ、君もまた此の如けん。

終焉の斎戒果てて、

肥えし野草のかげに君は逝き

白骨の中に苔むさば、其の時に、



ああ美しき形態よ。接吻に、

君をば噛まん地虫に語れ。

分解されしわが愛の清き本質と形とを、

われは長くも保ちたりしと。





すさまじい言葉の連続でいささか辟易します。でも音の響きとしてはいい詩で、シャンソンで歌えばきれいな歌になるかも知れない。内容ですが、真宗の御文に も同じようなのがありました。「・・・されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。」で知られる白骨御文です。人の考えることは東も西もそう変わ らないと言うことでしょうか。

余丁町散人 (2002.12.3)

--------
訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年12月2日月曜日

Le Monde : 混血のフランス

2002.12.2
ルモンド紙。今般、アレクサンドル・デュマの遺体が、国家的な偉人をまつるパンテオンに移され、葬られましたが、ルモンドの社説はこのことの意味について述べています。ちょっと感動してしまいました。排他的な日本の純血主義者達は、この論説を読んで、少しは考えて欲しいと思います。

L'éditorial du Monde
La France métisse (2002.12.1)


混血のフランス

11月30日、アレクサンドル・デュマがパンテオン入りをしたが、デュマと共に一つの強い風がこの殿堂(パンテオン)に吹き込んだ。文章が無限の言葉となり、生命が肥沃な小説となるような、激しい抵抗しがたい生命のほとばしりが、この殿堂に入ったのだ。この偉大な人間を通じて生み出された巨大な作品を、祖国が評価したのは明かである。デュマの悪口を言う連中はご愁傷様。この無限のユーモア感覚を持つ作家によってもたらされた大衆ベストセラー文学が、その復讐を果たしたのだ。しかし、忘れてはならないことは、この一体主義の世の中で、この人気がどれだけの征服と復讐の意味合いを持つかと言うことである。好意的であればあるほど、後世の人間は、作品の中で大活躍するマントと剣の英雄達があまりにも有名すぎるからか、この「作家」を作り出した人間(デュマ)そのものについて、何も知らないまま、見過ごしてしまいがちなのである。

なぜなら、彼は、三銃士やモンテ・クリスト伯などの、フランス文学の必須の作品群の作者としての永遠の神話的存在ばかりではないのだ。デュマは同時に、共和党員であり、社会改革に激しく取り組んだ人間であり、ガリバルディの赤シャツを着たバリケードの英雄を支持した人間なのである。そういう人間としてシラク大統領は今回デュマをパンテオンに入れたのだ。彼は同時に、ヨーロッパ人でもあった。精力的にコーカサスからチェチェンまで旅行し、世界に、またその雑駁さに好奇心を示した人間である。最後に、もっとも大事なことだが、彼は白人と黒人の混血児であり、人種差別主義の犠牲者であり、奴隷の子孫であり、奴隷売買の目撃者であったのだ。要するに「混血のフランス」のシンボル的存在なのである。この「混血のフランス」こそが、デュマと共に、本来あるべきところ、すなわちフランスの国家アイデンティティーの心臓部分(パンテオン)に受け入れられたのである。

2世紀前、1802年7月24日、デュマは生まれた。1794年にハイチの奴隷反乱をなだめるために一時禁止されたの奴隷および奴隷売買を、ナポレオンが1802年5月20日にちょうど復活させたばかりの時であった。この歴史こそが、植民地主義と人種差別主義、混血と排他主義、圧政と反抗の歴史こそが、パンテオン入りしたアレクドル・デュマの生々しい小説の原点なのである。アフリカ奴隷女の孫、アレクサンドル・デュマは、同じ名前のアレクサンドル・デュマ将軍の息子であるが、父のデュマ将軍は、奴隷小屋に生まれ、1776年に身分証明書なしでフランスに渡り、ルイ16世に仕える一介の竜騎兵となったが、その能力と勇敢さが飛び抜けており、「革命の将軍」にまで出世した人間であった。

クロード・リブがその著書『女王陛下の竜騎兵』で、デュマの父のことについて雄弁に詳しく書いているが、この共和党員で人文主義者であった混血の将軍の運命は、我々に我々の歴史の暗い面を思い起こさせるものである。1802年5月29日、混血の士官は陸軍から追放されることになる。1802年7月2日には、フランスの内地領土には黒人と混血児は入国禁止となる。1803年1月8日には、異人種間の結婚は禁止されるなどなどである。1806年、悲嘆の中で死んだデュマ将軍は、この人種差別主義の勃興が引き起こした多くの犠牲者の一人であったのだ。この家族の悲劇こそが、作家デュマをして復讐をはじめさせる起点となったものだ。混血のデュマとしての、多様で入り混じったアイデンティティーのシンボルとしてのデュマの復讐である。